川越線複線化運動の過去 1980年(昭和55年)の川越市広報より

川越線

川越線の複線化運動は1980年代以前から始まっていた

参考URL : 広報かわごえ 昭和56年2月25日発行

昭和56年2月25日発行の広報かわごえより抜粋

 川越市の広報誌のバックナンバーを調べていたところ、昭和55年頃に行われた川越線の複線電化に関するアンケートや要望の動きが昭和55年から昭和56年にかけて掲載されていることがわかりました。
 まず上記に挙げた1981年(昭和56年)2月25日発行のものでは、川越市だけでなく沿線の大宮市(現さいたま市西区及び大宮区)や日高町(現日高市)や飯能市の沿線の広い範囲において同じアンケートを行い、集計した結果が掲載されています。

 当時から複線電化を要望する声は大きく、単線非電化での当時の状況では、多くの市民において不満がある状況が分かります。当時よりも都内や川越・さいたま両市への通勤通学客が増加している現在においても、この結果と依然1時間3本というダイヤ踏まえれば、市民の不満が引き続き充満しているのは明白です。

それ以前から複線電化の要望が挙がりつつも潰えていた

参考URL : 広報かわごえ 昭和55年5月25日発行

昭和55年5月25日の広報かわごえより抜粋

 その年の2月のアンケートに先立って、1980年(昭和55年)川越市・大宮市・日高町・飯能市による複線電化促進協議会が発足しました。会長には当時の加藤瀧二市長を据え、市民と周辺の政財界が一丸となって運動を重ね、これによって1985年(昭和60年)の全線電化・部分複線化・埼京線直通を実現したという流れになります。

当時のネックもやはり国鉄の財政と需要

 当時の国鉄が複線電化を渋った理由も、昨今の複線化に対するJR東日本と全く同じものでした。
 同じ1980年11月には国鉄再建法が成立し、莫大な国鉄の財政赤字と著しい赤字体質を克服すべく問答無用の財政再建が行われ始めた矢先です。国鉄の財布の紐は非常に強く閉じられ、地方では新線建設の凍結と路線廃止が相次いで決定されていました。そんな中で国鉄がすんなりとこの要望を受け入れることはありませんでした。
 これまた現在と同じように、複線化するほどの需要がないことも理由にとって、国鉄は複線電化に対して否定的な対応を取り続けていました。また、当時は新幹線も埼京線も未開通であり、東北本線の大宮〜赤羽間は遠近様々な方面の電車が集中し、ダイヤ・利用客ともに飽和状態で、殺人的混雑と言われていた時代です。そのため、川越線のダイヤ改善による大宮以南の利用客増加を避けたいという国鉄の狙いもあったとされています。

結び : 今こそ、30年前にやり残した課題を解決すべき

 川越線の利用客数は、1985年の電化以来増加の一途を続け、まもなく当時の2倍にも到達しようとしています。
 当時課題になっていた大宮以南の線路容量も、新幹線や埼京線の開通、貨物列車の減少、競合する東武東上線や埼玉高速鉄道の輸送力増強により、大幅に環境が改善されています。また、首都圏各路線を擁するJR東日本の財政の健全性は、JR東海を上回るとも言われています。

 今こそ、30年前にやりのこした複線化という課題を解決し、JR川越線の抜本的改善を行うタイミングです。30年前と同じように、今はまた荒川橋梁架け替えという絶好のタイミングもあります。このタイミングを逃すと、川越線の複線化はまた夢のまた夢となってしまうでしょう。
 JR東日本には、このJR川越線沿線の市民と政財界一丸となった複線化への要望について、真剣に受け止めて頂きたいと願います。

参考(関連)URL : 川越トレイン | 悲願の川越線複線化へ、市民と政財界が一致団結!

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