西武新宿線日清紡川越工場専用貨物ホーム跡

西武新宿線

工場がなくなってもなお残された遺跡

今から50年以上前、西武新宿線の脇田ガード付近から上り方向に向かって分岐する短い貨物線がありました。分岐点から図っても全長100m弱の、旧日清紡川越工場専用の貨物駅です。

出典元 : 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス

上記の写真は1958年2月のもので、写真中央の脇田ガード付近から歩行者専用踏切を経て旧日清紡川越工場まで、本線に並行して伸びる短い貨物線が確認できると思います。

 日清紡川越工場の前進である川越紡績がこの場所に工場を構えたのがいつであるのか、実ははっきりとした資料が見当たりません。1923年(大正12年)1月に大興紡績という紡績工場が創立され、その後まもなく倒産しています。しかしこの大興紡績ができる以前からこの場所には紡績関連の工場か何かがあったという噂話は耳にしています(元々川越は養蚕の盛んな街なので、養蚕業をやっていた人がいたのかもしれません)。そしてすぐにその場所で改めて川越紡績という紡績工場が1927年(昭和2年)6月に書類上の創立はなされているようです。
 その後1937年(昭和12年)年に日清紡が川越紡績を買収し日清紡川越工場となり、戦後の好景気を経て2009年(平成21年)に閉鎖されました。当初は名前の通り紡績工場でしたが、末期の頃にはブレーキパッド等を作っていたようです。
 2009年以降順次建物が解体され、跡地には川越ココロマチという大規模な分譲住宅地が完成しました。

 その川越ココロマチの裏手、西武新宿線沿いに、ひっそりと旧日清紡川越工場の痕跡が残っています。それがこの貨物ホーム跡です。

 まずは、向かい側の道路からちょっと離れての3枚。

この付近の西武新宿線の本線は単線区間ですが、敷地はご覧の通りで複線分程度が確保されたゆったりとした状態になっています。草むしている部分の配管と架線柱を取り除けば、奥に見える貨物ホーム側にちょうど1線引くスペースが有ることがわかります。

 ホーム部分をアップにして撮影をしていたら、20000系がのんびりとやってきました。

引き込み線がいつからいつまで存在していたのか定かではありませんが、国土地理院の航空写真を見ると、米軍が1946年(昭和21年)に撮影した段階では既に存在しており、1979年(昭和54年)の航空写真では既に荒れ果てている状態となっていることから、戦前に作られて昭和50年代初頭頃まで使われた後に放棄されたのではないかと考えられます。基礎部分が脇田ガードの橋台と同じようなレンガ造りであることから、JR川越線(当時は国鉄川越線)が作られた1940年(昭和15年)頃に作られたものではないかと考えられます。

 余談ですが、この黒いフェンスのあたりに旧日清紡川越工場が解体される少し前まで、貨物駅舎(倉庫)が放棄されたまま残されていました。そちらも一部レンガ造りだったと記憶しています。

名物の歩行者専用踏切から撮影

地元の子供達がぐずると必ず連れてきてもらうこの踏切から、電車の往来の合間を縫って撮影してみました。ちなみに、私も例外なく、この踏切と黄色い電車にはお世話になっておりました。

 ちなみに冒頭の航空写真をご覧いただくと分かる通り、貨物線が現役だった頃のこの踏切は複線対応だったようです。確かに、スペース自体は複線に対応できそうなかなりゆとりある幅です。

結び : ホームを残してくれた関係各位の皆様に感謝

 旧日清紡川越工場の閉鎖とともにこのホームも解体されてしまうものと思っていましたが、工場閉鎖と解体を担った日清紡も、川越ココロマチの分譲を担ったトヨタホームも、敷地を所有する西武鉄道も、このホームを壊さずそのままにしました。一般的に見れば大した歴史遺産ではないのは事実ですが、小さい頃からいつも西武新宿線の電車とセットで眺めていたボロボロのホームが消えてしまうと考えると寂しさを感じたものでした。
 ささやかな鉄道の歴史遺産を残してくれた関係各位の皆様には、地元民として謝意を評したいと思います。

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