的場駅周辺の都市開発について考える

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的場駅周辺の歴史と現状

 的場駅の生い立ちも、先日考察した南古谷駅と全く同じです。西大宮駅以外の川越線の途中駅は1940年(昭和15年)7月22日に一斉開業し、この的場駅も同時に開業しています。もちろん駅舎も当時のままで、川越線名物の丸屋根のものです。

 的場という駅名はこの周辺の地名から取られています。地名の由来はその名の通り川越藩の的場があったためです。なお、1916年(大正5年)の東武東上線延伸時に、現在の東武東上線霞ヶ関駅はこの地名に由来して的場駅として開業していますが、1940年(昭和15年)の国鉄川越線開業に際して駅名を返上し、今の霞ヶ関という名前に変わっています。

 同じ日に開業した川越市の郊外に位置する駅であるという立場は南古谷駅と同じですが、以下の写真を見ると分かる通り、的場駅は最初からある程度住宅の密集した地域に設置されました。
 これは古谷村の中心部を通る川越新道(現在の国道16号東京環状線)とも南古谷村の大きな集落とも大きく離れた場所に設置された南古谷駅と異なり、日高市方面や吾野方面、飯能方面と川越を結ぶ日高県道(県道川越日高線)とそれに沿うように栄えていた旧的場村(明治22年の合併以降は霞ヶ関村大字的場)の中心部をかすめて川越線が建設され、その場所に的場駅が設置されたという経緯によるものです。

一見して分かる通り、現在では的場駅と霞ヶ関駅は同じ市街地に存在しています。的場駅と的場駅の間を中心に、1964年(昭和39年)から東急建設によって東急ニュータウンが開発されました。その後1980年代から2000年頃にかけて的場駅北東側の旧日本油脂工場跡地周辺の宅地造成が進み、東急ニュータウンと市街地が完全に一体となりました。

 周辺に位置する霞ヶ関・霞ヶ関北・川鶴の各地区の合計人口は5万5千人を超えます。これは南古谷駅周辺に位置する古谷・南古谷の各地区の合計人口約3万5千人よりも遥かに多く、人口35万人の川越市の7人に1人はこの地区のいずれかに住んでいる計算になります。
 そうであるにも関わらず的場駅の1日の平均乗客数が3千人程度であるのは、周辺にいくつかの駅があるためです。
 面積的には古谷・南古谷の各地区の合計と大差ありませんが、この面積内に位置する駅は南古谷駅のみです。対して、西側3地区には、的場駅の他に笠幡駅・霞ヶ関駅が存在します。また、隣接する鶴ヶ島市の名前を冠する鶴ヶ島駅も、住所的には川越市であり、この3地区からも多くの利用客があり、多くの駅に利用客が分散している状況です。

 また、利用客数の差は、ダイヤグラム的にも車両設備的にも東武東上線のほうが圧倒的に便利であるということも要因の1つとしてあげられます。
 現在昼間の的場駅が30分ごとに4両編成の電車が半自動ドア(2020年6月現在、新型コロナウィルスの影響で車掌が自動開閉しています)で運行されていますが、東武東上線は毎時6本10両編成の電車が運行されています。運行頻度だけでも3倍ですが、電車も10両編成で、輸送量に換算すれば7.5倍程度の開きがあります。これが平日朝夕ともなれば、更に開いてしまうのが現状です。

 的場駅の周辺は、的場駅同様、比較的昔ながらの一戸建て住宅が多く立ち並んでいます。特に駅の東側の的場県道踏切周辺と県道川越日高線周辺にその傾向が強く、その周囲には比較的新しい一戸建て住宅や低層集合住宅が立ち並んでいます。

 駅前に商店街らしい商店街は存在せず、ロータリーもありません。そのため、バスも基本的には駅前まで来ず、またタクシーも殆どありません。
 利用客の大半は朝夕の通勤通学客が主で、川越市内や大宮方面、東京方面への通勤通学の流れが多いほか、周辺に位置する東京国際大学への通学客も比較的多く見られます。

 一見すると、ちょっと賑やかな地方都市郊外の駅という感じでしょうか。川越線の駅の中でも特にのんびりしている駅の1つです。

構内踏切が現役で稼働中

 川越線は全線に渡って単線ですが、2005年(平成17年)の武蔵高萩駅橋上駅舎化以降は唯一的場駅のみが構内踏切を供用しています。

 利用客数は武蔵高萩駅とほぼ変わらず、周辺にベッドタウンを擁し、朝夕を中心に通勤通学客でごった返す姿も同じです。周辺に大学を有するのも同じですが、設備としては殆ど全て開業以来の姿を保っています。

 構内踏切からホームへ登る階段はバリアフリー化され、スロープと屋根が増設されています。しかし当然ながら踏切なので、足の不自由な方や目の不自由な方は渡ること自体が困難です。

南側に1つだけの駅舎

 また、駅舎は南側に設置されているのみで、当然ながら駅北側に出入り口はなく、いわゆる駅裏となっています。特に旧日本油脂工場跡地周辺の住民は、おいせ通りの陸橋か第二新田踏切から駅南側に回る必要があります(的場駅西方直近の新田踏切に回るには若干遠回りが必要になります)。

 同様に、東京国際大学第1キャンパス方面に向かう場合も、駅東方の的場県道踏切を渡る必要があります。距離的にはそこまで遠回りになりませんが、この踏切は自動車の交通量が多く、歩道がありません。駅東方直近に西踏切はありますが、これも新田踏切同様北側にまっすぐ伸びる道に接続しておらず、非常に不便です。

的場駅周辺への提案 : 橋上駅舎化による北口開設と駅前通り整備

 表題の通り、まずは橋上駅舎化による北口の開設は必須であると考えます。戦中以来の懐かしい駅舎にも愛着はありますが、ただでさえ狭隘な改札口に加えて、不便な構内踏切を捨て置くことはできないでしょう。北の駅裏側からのアクセスの悪さも、同時に北口を開設することで解消すべきです。

 加えて、駅前の道路整備も至急行うべきであると考えます。

上の図の青色の線と橙色の線が、それぞれ南口駅前道路と北口駅前道路の案です。
 どちらも現存の線路に並行する小道は引き続き歩行者通路として整備しつつ、南側は現行の駅前道路の拡幅、北側はおいせ通りへ抜ける道路の設置と拡幅を提案します。

 この案のミソは、いずれも車の通行を最小限とする想定であるということです。鶴ヶ島駅と的場駅を結ぶバス路線を誘致するとともに、新しく整備した駅前道路は6時-10時と15時-19時の朝夕ラッシュ時間帯はバスと自転車のみ通行可能とし、自家用車による送迎の過剰な混雑を避ける必要があります。

結び

 余談ですが、1958年(昭和33年)10月1日のダイヤ改正時の時刻表を見ると、朝の時間帯に大宮発的場行と的場発大宮行の区間列車が運行されています。まもなくして東飯能行に変更されているようですが、当時から学生等の利用が多かったのではないかと考えられます。
 この橋上駅舎化を機に、東武東上線への乗り換えを前提とした的場-南古谷間の川越市内シャトル便を朝夕に4両編成で運行しても良いのでは?と感じましたが、それはまたダイヤ考察の際にまとめたいと思います。

 次は、少し冷却期間を空けてから、川越線で最もシンプルな駅である西川越駅と園周辺の開発についてまとめたいと思います。

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