川越線紹介 その2 歴史編

年表

  • 1940年(昭和15年)7月22日:全線開業
  • 1985年(昭和60年)9月30日:全線電化、大宮駅 – 日進駅間複線化、大宮駅 – 川越駅間で埼京線との直通運転開始
  • 1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化、全線の貨物営業廃止
  • 1996年(平成8年)3月16日:川越駅 – 高麗川駅間で八高線と直通運転開始
  • 2002年(平成14年)12月1日:東京臨海高速鉄道りんかい線と相互直通運転開始
  • 2005年(平成17年)
    • 8月6日:大宮 – 武蔵高萩間に東京圏輸送管理システム (ATOS) 導入
    • 10月2日:103系営業運転終了
  • 2008年(平成20年)3月1日:大宮・南古谷・川越・高麗川の各駅以外の駅員をジェイアール宇都宮企画開発からの派遣駅員に変更
  • 2009年(平成21年)3月14日:西大宮駅開業

開業経緯 〜元々は軍事路線〜

 川越線の開業した1940年(昭和15年)は、大東亜戦争の始まる前年。欧米では既にナチスドイツの侵攻が進み、日本も既に日中戦争のさなかという、いわゆる第二次世界大戦の初期でした。
 川越線は本来鉄道敷設法の建設予定線に含まれない路線でしたが、戦時体制へ移行するさなかの1934年(昭和9年)、東京を通過せず東北本線・中央本線・東海道本線を結ぶための路線の一部として急遽建設線として登録されたものです。
 建設線への登録と着工は共に1934年で開業が1940年ですから、計画が持ち上がってから全線開業までわずか6年というスピード開業であることがわかります。当時の新聞にも「帝都防衛の指名重く」という大見出しが張られたほか、元々川越 – 大宮間を結んでいた西武大宮線も半ば強制的に廃止に追い込まれていることからも、政府の戦時政策の一環として開業が急がれたことがわかります。
 また、建設中に武蔵高萩駅から数キロ離れた地点に陸軍士官学校と練習地が設置され、昭和天皇の行幸の際にも利用されることを想定して、武蔵高萩駅には貴賓室が設置されました(2005年解体)。

 ちなみに当初の計画では大宮から東飯能を結ぶ路線だったようで、その名残は電化まで運転系統に残っていました(後述)。

開業から電化まで 〜のどかなローカル線時代〜

 路線の中心にある川越市は、大正時代には県内初の市制施行した、関東北郊の中核都市の1つです。しかし、川越城を中心とした城下町が中心となった市街地の南端から更に少し離れた場所に国鉄川越駅が設置されたため、利用客はさほど多くありませんでした。幹線ターミナルの大宮駅を除くとどの駅も似たり寄ったりの規模で、戦時政策に従った目的を失った戦後昭和時代の川越線は、長い期間に渡ってひなびたローカル線として過ごしました。

 ダイヤは1958年(昭和33年)頃から電化まで、本数や区間が変化すれど、ほぼ変化はありません。
 1958年11月の時刻表を見てみると、大宮から川越を経由して高麗川(一部列車は八高線の東飯能)までの全線通しの列車に加え、大宮と川越・指扇・日進の各駅を結ぶ区間列車、川越から的場までを結ぶ区間列車が設定されています。
 1985年(昭和60年)3月の電化直前でも、上記とほぼ変わりはありません(川越 – 的場間の区間列車のみ消滅しています)。

 気動車が普及するまでは9600系が牽引する客車列車と貨物列車が主で、貨客混合列車も走っていたようです。
 気動車としては、高崎区や大宮区所属のキハ20系やキハ30系・35系が主に利用されました。気動車時代の末期は通勤型のキハ35系に統一されました。一方、近郊型として多く見られたキハ40系は一切運用されなかったようです。

 利用客数は、本数と設備の割には多かったようです。正確な数字はあまり残っていませんが、1980年(昭和55年)の国鉄再建法の成立時点で、川越線は輸送密度8000人以上の「幹線」としてみなされています。その当時、既に相模線や八高線等の路線とは一線を画す程度の利用客があったことがわかります。
 また、同じ1980年に大宮・川越・日高・飯能4市町により発足した「国鉄川越線複線電化促進協議会」の答申内容や各市町の議会録によれば、1970年(昭和45年)頃から川越・大宮両市の郊外の宅地開発が急激に進んだこともあり、1980年頃ではラッシュ時を中心として列車の混雑が問題化していたようです。

 当時の逸話としては、川越線はしばしば国鉄大宮工場の新造気動車の試運転に利用されたというものがあります。
 ほぼ1時間に1本の閑散としたダイヤ、国鉄大宮工場への引き込み線に隣接している、何もない場所を通したため線形が非常に良い・・・思いつく理由をパッと上げれば、なるほど試運転に都合が良いなと思えると思います。
 実際に走った試運転車両としては、特急はつかり用に新製されたキハ81系や新型ガスタービン車の試作車であるキハ391系が有名です。
 ちなみに、現在でも大宮工場と川越車両センターの間で新造車両やリフレッシュ済車両の試運転をしている場面をちらほら見ます。ダイヤがパターン化されているので、現在は現在でまた使いやすいのではないかと思います。

電化 〜JR最強のドル箱路線の一部へ〜

 川越線に大きな転機が訪れたのは、1985年の埼京線開業に伴う電化開業でした。ざっと上げるだけでも、この時に以下の大きな変化がありました。

  • 全線電化
  • 大宮駅地下化及び2面4線化
    • 元々は地上1面1線
  • 南古谷駅2面3線化
    • 元々は2面2線
  • 川越駅2面3線化
    • 元々は1面2線+側線
  • 大宮 – 日進間複線化
  • 川越車両区(現在の川越車両センター)開業
  • 川越 – 大宮間の電車を103系10両編成に原則として統一 (一部3両編成直通は残る)
  • 川越 – 高麗川間の電車を103系3両編成に統一
  • 川越駅や日進駅での分割併合の廃止
  • 運転系統を原則として川越駅で分離 (一部3両編成直通あり)
  • パターンダイヤ化 (ほぼ終日に渡り全線で20分毎のパターンダイヤを導入)
  • 埼京線との直通運転開始

 ここまで変わってしまうと、もはや全く別の路線と言っても過言ではありませんね。
 元々埼京線は高崎線と直通運転をする予定でしたが、市民団体の反対や国鉄の財政赤字から埼京線沿線・高崎線沿線に車両基地を設置できず、白羽の矢が立ったのが田園地帯を貫く川越線でした。
 1985年の『革命』により川越・大宮・日高の各都市の宅地開発は更に加速し、利用客は以後現在まで伸び続けています。
 今となって考えれば、当時車両基地設置に猛反対した市民団体には感謝しなければならないのかもしれません(最も、その頃は国電同時多発ゲリラ事件等過激な手法が横行していたため、当時においてそういったことは一切思えなかったと断言できます)。

最近 〜ちょっとした変化がありました〜

 個人的に「これは大きな変化である」と思ったのは、2013年(平成25年)のE233系7000番代の新造導入です。
 開業以来間もなく80年になる川越線ですが、川越線への導入のために車両を新造導入したのは1996年(平成8年)以来17年ぶり2回めです。
 蒸気機関車の9600系に始まり、各気動車も電化後の103系も205系も209系も、その殆どが他路線とのお下がりとその改造車でした。209系3000番台及び209系3100番台の一部車両は新造車両ですが、こちらの製造目的は旧車両の老朽化による置換が主で、E233系7000番台とはちょっと話が異なります。
 E233系7000番台は205系の老朽化による置換目的ももちろんありますが、同時に川越線・埼京線初の拡幅車体構造採用車両導入による混雑緩和も目的となっています。もちろん埼京線の殺人的混雑緩和が主な目的ではありますが、同時に川越線の朝夕ラッシュ時の環境改善にもつながっており、非常に大きな動きであったと感じています。
 また、小さいところではありますが、これまで川越車両センターに所属する103系・205系・209系の新造・改造車両は全て「3000番台」を名乗ってきましたが、今回初めて「7000番台」となり、規則を破ったところにも注目しています。

 その他、最近では、りんかい線との直通運転開始、南古谷発の埼京線直通電車設定、「おさんぽ川越号」の臨時運転頻発化あたりが細かいけれども気になっている明るいニュースになっています。このあたりはまた別途掘り下げていきたいと思います。

それではこのへんで!

コメント